カッコいい50歳を迎えるために。お小遣い2万5千円からの脱却。

あと数年で50歳を迎えるワシの小遣いは月2万5千円。どうにかしてもう少し好転させたい。

節約も疲れたよ。

 ボーナスが支給された。

 

 思わず目を疑った。

 

 0.7ヵ月。

 

 

 

 0.7という数字そのものは事前に知っていたのだけれど、実際に振り込まれた金額を見ると、それは到底ボーナスと呼べるものではなかった。ただでさえ少ない毎月の給料よりさらに少ないその額を見て僕はボーゼンとなった。

 

 これまでも決して多くはなかったとはいえ、やりくりすればギリギリやっていける額だった。が、今回の額は想定を超えていた。

 

 真っ先に思った。

 

 これでは住宅ローンが支払えない。

 

 単純な引き算で20万円足らない。

 

 一体どうしよう?

 

 

 

 ちょうど世間は参議院選挙だった。与党の圧勝に終わった。

 

 アベノミクス

 

 みんなそんなに潤っているのだろうか?

 

 少なくとも僕は、この政策が始まってから、一度もその恩恵を受けたことがない。

 

 いや、あるいはものすごく広い視野で見たら、知らないうちにどこかで受けているのかもしれないが、自分の収入、自分の暮らしという限られた範囲で見る限り、この数年、よくなるどころか悪くなっている。給与が上がったことは一度もない。

 

 正直、もう節約も限界だ。

 

 いくら毎日、100円、10円の単位で節約したって、こんなところで20万もマイナスになっては、そんな節約など何の役にも立たない。やっているのが虚しくなる。

 

 本当にどうしたらいいんだろう?

断ること

 前回書いたことの続きになるが、この『節約病』にかかるといくつかの弊害が起こる。

 

 その一つはつきあいが悪くなること。

 

 サラリーマンである僕にとって、つきあいといえば、仕事が終わった後の飲みのことを指す。今は会社全体が給料が低下傾向にあり、飲みに行くといってもそんな高い店にいくわけではない。1品数百円の格安店か、立ち飲み屋がせいぜいだ。何杯か飲んで2,3千円といったところだろうか。

 

 でもその店にすら行かない。行けるわけがない。

 

 だって、昼食の100円、50円を抑えるために日々シノギを削っているのである。限られた予算の中でいかに満腹になるか、いかにうまいものを食うか、そしていかにバランスよく栄養分を取り入れるか(腸の活動が鈍ってきたアラフィフ男には野菜は欠かせない)。これらの命題を抱えながら、なんとかして500円似内に抑えるよう粉骨砕身しているのである。

 

 それなのに、もし飲みに行けば、

 

 生ビール500円。

 

 1杯、だよ。

 

 たったの1杯で1日分の昼食代を使ってしまう。

 

 しかも1杯で終わるわけがない。酒に強くない僕ですら飲みに行けば3杯くらいは飲む。当然ツマミも頼む。

 

「じゃあ、1人2,800円で」の声とともに自分の5日分を超える昼食代が強権的に徴収されていくのだ。低価格の店でこれである。

 

 これが誰それの送別会なんかになろうものなら大変である。「じゃあ、送別のプレゼント代合わせて5,500円集めまーす」とかなんとか言われて、たった2時間かそこらの会のために目の飛び出るような金額が飛んでいくのだ。思わず卒倒しそうになる。

 

 とはいっても送別会、歓迎会のたぐいはしょうがない。さすがにこれを断るわけにはいかない。同じ職場で同じ仕事をしている人間としてそれはできない。その場を設けることまで否定しようとは思わない。ただ、もう少~し、安い店でやってくれたらなァ~と思うことはある。

 

 要はこれらの半ば公式な飲み会は別として、それ以外の「ちょっと行こうか」的な飲みに参加しなくなる、ということなのだ。だいたいにして、このテの「ちょっと行こうか」的な飲みは誰かしらによって突然提案されることが多い。会社の従業員出入口を出たところとか。

「1杯だけ行きますか」

「お、いいねえ」とすかさず一緒にいた何人かがそれに同調する。3人集まれば行くことになるのは必定。僕は内心、うわ、マジかよ、と思いつつ黙っている。どうすべきか考える。まもなく自分に振り向けられる「どうする?」の答えを考える。

 

 以前は、つまり今よりもう少しお金に余裕があった10年くらい前は(10年かい!)、「じゃあ、行くよ」あるいは「行きます」と答えることができた。あまり気が進まなくても、場の雰囲気を壊さないため、そして人間関係をより良好に保つため、とりあえず行く、という選択をすることができた。

 

 が、今は違う。場の雰囲気を壊さないように振舞っていたら、自分の財政が壊れてしまう。人間関係を良好に保つ代わりに収支が悪化していく。

 もはや「行く」という選択肢は今の自分にはほとんどなかった。

「今日はやめとくよ」「今日はやめときます」

 最初は勇気がいったこの言葉も今では割と平気に口にすることができるようになった。断ると、その時はわずかに空気がゆらめくのを感じることもあったけど、そのことで人間関係に支障をきたすということはなかった。それからはほぼすべてのお誘いを断り続けた。「今日はやめときます」

 内心、「今日は」ではなくて「今日も」だよなァと思っていた。たぶん誘ってくれた人も同じように感じていただろう。それから次第にお誘いも来なくなった。

 

 

 そして気がつくと、家と会社を往復するだけの人生になっていた。

 

 

 

 

 

 

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節約病

 あと数年で50歳を迎えるというのに日々涙ぐましい節約をしているのはカナシイというほかないが、実際問題、毎日節約ばかりしていると、お金を使うということができなくなってくる。節約が身に沁みついてしまうのだ。

 例えば僕は、最寄り駅までいつも自転車で行っているわけだけど、雨の日は当然ながら自転車に乗ることができない。そういう時はバスに乗る。

 バス代は片道220円。

 普通の大人なら220円はなんてことのない金額である。

 が、日々100円単位、いや、10円単位で節約する日々を送っていると、カナシイかな、この220円を支払うのが次第に惜しくなってきてしまうのだ。

 いつもなら自転車でお金がかからないのに、ただ天気が雨だという、たったそれだけのために、220円を支払わなくてはならないのはあまりにももったいない。どうせ使うのならもっと有意義に使いたい。昼食のおかずを1品増やすとか、食後のコーヒーを頼むとか、もっと気分が明るくなることに使いたいではないか。なのにどうして駅まで行くためだけのためにわざわざ220円を支払わなくてはならないのか。そういう思考回路になっていく。

 そうしてたどり着く結論。

 歩こう。

 駅まで。

 駅まで歩くとゆうに30分はかかるのだが、駅までたどりつくだけのためにどうしてもその金額を支払いたくない。そういう気持ちが勝って、よほどの大雨でない限り、駅まで歩くことになるのだ。

 でも歩いているうちに、スーツは肩が濡れ、背中が濡れ、ズボンは折ジワが消えてしまい、駅に着くころには相当みっともない姿になっている。そんな自分のアワレな姿を駅のトイレの鏡で見て、ああ、自分はなんて情けないんだろうと、朝からシオれた気持ちになってしまう。

 その度に、バカらしい、今度は雨が降ったら潔く、大人らしく、正々堂々とバスに乗ろう、そう決心するのであるが、何日かしてまた雨が降ると、結局は220円を支払うのが惜しくて駅まで歩いてしまうのであった。

 

 

 お金が使えなくなることの、これはほんの一例である。

 1日500円と決めている昼食代。これだって、ある日、100円オーバーして600円になるものなら、次の日はなんとかして100円少なく済まそうとする。500円から100円減らしたら相当モノガナシイ昼メシになるのは想像に難くないが、やっぱり前日に100円オーバーした罪悪感があり、そのサビシイ昼メシでなんとか済まそうとするのだ。

 

 こうしたことをくりかえしているうちに、どんどんお金を使えない身体に、心になっていく。

 そしてこれが自分の生活パターンになっていくのだ。

 こんなことをしている限り、お金は増えない。

 これまでに読んだ幾多の本の教えによると、この生活をくりかえしていると、自分自身がそれを求めていることになってしまうらしい。つまり、節約する生活、お金に不自由する生活、お金がもっと欲しいと願う生活。それを知らない間に求めていることになるらしいのだ。

 お金がない。お金がほしい。そう思っている間は、常にそう思いたくなるような出来事がやってくるという。

 …なんてことだ。

 お金がほしいのに、実はそう考えることによってお金のない生活を求めていることになるなんて。

 そんなつもりは全然ないんだけど。

 

 それらの本は言う。

 お金がなくてもお金がないことばかり考えないこと。お金がなくても、自分にはお金があると思うこと。経済力があると信じ切ること。

 

 お金がないのにそんなこと思えるワケない、と思ってしまうが、どうやら思考のクセから変えていかないとダメらしいのだ。 

 

 自分には十分なお金がある!と。

 

 …できるかな?

哀愁ドーナツ

 お金のないオトーサンはアワレなものである。

 威厳も何もない。

 子供が小さいうちはまだよかった。いくら小遣いが少ないとはいえ、子供がヨロこぶ程度の買い物――おやつとかジュース――くらいは買ってやることができた。

 が、子供の成長とともに次第に状況が変わってくる。

 

 わが家には18歳のムスメと12歳のムスコがいるのだが、ムスメのほうは高校に入学した1年目からファミレスでアルバイトを始めた。受験でやめるまでのおよそ2年半、かなりの頻度で働いていた。そして大学に入ってこれまたすぐに飲食店でアルバイトを始めた。夜の閉店後の仕事が多いらしく、夜の11時ごろに帰ってくることもある。勤務日数も多い。

 そんなある日のこと。

「今日、銀行に行ったらさー」たまたま家に家族全員がいる時、ムスメが言いだした。「ついに100万円貯まってた」

「ウソ?100万?」と中学生のムスコは驚いていた。

 僕は黙っていた。「ふーん、すごいね」とか「へえ~、頑張ったじゃん」とか、何か声のかけようもあったのだろうが、そうすることができなかった。素直にヨロこんであげることができなかった。それはひとつには、突如出てきた100万という数字に驚いてしまったことと、もうひとつは、一緒にヨロこんであげるには、自分の経済状況が悪すぎることがあった。だって貯金なんかないのだから。引き出しの中に、もしもの時のために、500円玉が2枚と1000円札を1枚忍ばせてあるが、そんなものは本当のもしものときには役に立つはずもなく、世間ではそれは貯金とは呼ばない。

 

 100万貯めたというムスメに対し、心のどこかで、そりゃバイト代丸々貯金出来たらそれくらい貯まるよナという、親とも思えないヒネた目で見ていたのだ。だからヨロこんでやることができなかった。それはそのまま自分の小ささを表しているようであった。

 

 残念ながら、100万持っている子どもの前ではオトーサンは無力である。

 

 以前は、というのは子供がまだ小さかった頃は、会社帰りに100円セールになったドーナツを買っていってあげると、子供たちはとてもヨロこんでくれた。「ボク、これね!」「ワタシはこのイチゴの!」「パパはどうすんの?」と、そのドーナツを囲んで楽し気な会話が飛び交った。500円であれだけの明るさがもたらされたら安いものだった。

 が、今は違う。

 サビシいお小遣いの中、買うかどうしようか、額から汗水たらして迷った挙句、駅でドーナツを買って帰る。家に着いて「はい、ドーナツ買ってきたよ」とテーブルに置いても顔を上げる人は誰もいない。ムスメも、ムスコも、カミサンも、みんな揃ってスマホをいじっている。何の反応もない。ドーナツ買ってきたよ、という僕の言葉は虚しく宙をさまよう。やりきれない気持ちになりながら、ふと晩酌用の冷凍食品があるかなと思って冷凍庫を覗くと、その中にはムスメが買ったとおぼしきハーゲンダッツのアイスクリームが2個鎮座していた。コイツは確か1個で300円くらいするはずだ。僕は3秒ほどそのアイスを見つめてからゆっくりとドアを閉めた。それからテーブルの上の寂しげなドーナツに目をやった。もはや500円のドーナツでわが家に団らんがもたらされることはないのだ。それはとどのつまり、僕が家族をヨロこばしてやることができないという意味でもあるような気がして、そのまま肩を落として着替えに戻った。

 

 

健康も大事

 先日、勤務先の健康診断の結果が返ってきた。

 毎年のことながら、開封時はちょっとドキドキする。この年になると身体のどこかしらにガタが来ても不思議ではないからだ。実を言うと、これまでも尿に少しばかり潜血反応が出たり、胃が潰瘍気味だという結果がもたらされたことがあった。いずれのときも大事には至らず事なきを得た。

 さあ、今回は?

 

 総合評価B。

 

 あー、どうやら何かひっかかったらしい。

 なんだろうと思って詳しく見てみると、肝機能と心電図の結果が『要経過観察』となっていた。

 え~?

 2つとも意外な場所だった。そんなところがひっかかったことはこれまでにない。どうしちゃったんだろう?

 肝臓…

 肝臓というと「イコール酒」の図式が思い浮かぶ。

 僕はあまり酒が強くない。飲むとすぐに赤くなるタイプだ。昔は酒自体がそれほどうまいとは感じられず、よって飲む機会もすくなかった。

 が、いいのか悪いのか、数年前から酒がうまくなってきたのだ。ビール(主に発泡酒)はもとより、焼酎、ウイスキー、日本酒に至るまで、自分で買うほどになってしまった。あるいは仕事でのストレスも関係していたかもしれない。ここ数年でお酒を飲む量は――もともとが少なかったこともあり――飛躍的に増えた。

 

 気になって調べてみると、僕のような酒に弱い人が急にたくさんのアルコールを摂取するようになるのはどうもあまりヨロシクナイらしい。中には結構コワイことも書いてあって僕は途中で調べるのをやめてしまった。今さらそんなこと言われても…

 

 でも確かに最近、疲れやすいし、背中もじわ~っとイタイ気もする。それと、ここ数か月でかなりヤセてしまった。久しぶりに会う人にビックリされる。

 知らなきゃ気にならなかったことが知ってしまったがためになんだか気になってきてしまった。 

 

 だけど病院で診断を下されたワケでもなく、ここで急にお酒をやめるというのも無理がある。だって今だってすでに冷蔵庫に何本か冷やしてあるんだし…だんだん暑くなってきたし…仕事で疲れた日はちょっとくらい飲みたいし…まあ、飲む理由はいくらでも作ることができるのだ。

 

 いろいろ考えた結果、休肝日を増やすことにした。これまでは週1日か2日だった。これだって『飲む人』からすれば考えられない多さだろうけど、まあ、僕の場合は元がほとんど飲まない身体だったから。で、この週に1日か2日の休肝日を増やす。どれくらい増やすかというと、思い切って飲む日を週に3日とする。簡単に言えば1日おきということだ。

 

 …できるかナ?

お金がほしい。

 こんなあからさまなタイトルもないだろうと我ながら呆れるが、これはここ数年にわたる僕の切実な願いである。

 

「カッコいい50歳を迎えるために」

 そのために必要なのは、そう、金である。10代、20代の若者ならいざ知らず、50にもなって金がないではカッコよくなれるはずがない。かくいう自分も、もうすでに齢40代の後半も後半なのだが、金がないためにカッコよくなれない。それは外見がいいとか悪いとかではなく、カッコいい行動が取れない、ということである。

 

 だってそうだろう。お金がないと思うといろいろな場面で制約が多い。

 

 例えば何人かで食事に行くとする。何人かでなく2人でもいいし、1人でもいいのだが、とにかくレストランなり、定食屋なり、中華屋なりに入るとする。席に着き、メニューを開く。自分の場合、真っ先にチェックするのはそこに書かれた料理名ではなく、何はともあれ最初に「値段」である。文字ではない。ひらがなやカタカナ、漢字ではない。数字である。見るのはまず数字。

  ここで、4ケタの数字は問答無用でカット、即座に視界から消す。次に3ケタの数字の中から、9や8で始まるものにもあえて焦点を定めない。見えそうになっても素通りする。そうしているうちに次第に読み取れる数字が現れてくる。それは7から始まる数字である。このあたりになると、僕の脳の中で『検討』のテーブルに乗せることができるようになる。可能性が感じられるようになる。

 

 メニューの探索はまだまだ続く。一緒に店に入った人たちと談笑しているように見せかけて、その実、必死でメニューに目を凝らしている。少しでも安いもので済ませたい。自分にはその使命がある。制約がある。習性がある。

 すると、メニューの最後の方に6から始まる数字が見えてきた。600円台。ついにきた600円台。ありがたい。これだと、僕の1日の昼メシ予算の500円にかなり近づくことができる。どうやらここが底値らしい。

 ただし、この値段帯になると、料理の内容も、先に消し去ったものに比べて若干サビシイものになるのは否めない。店にもよるが、たいてい冷凍のハンバーグランチだったり、若干べとついた唐揚げ定食だったり、若干ひき肉の少ない麻婆豆腐定食だったりする。質量ともに満足、といったものは出てこない。

 

 とりあえずあらかた決まったところでまわりを見わたすと、中には結構高そうな料理を眺めている人もいる。それを見て、僕もとりあえず小難しい顔をして、ステーキランチや、刺身定食、チンジャオロース定食・フカヒレスープ付き、を眺めたりする。でも眺めているだけである。1,000円前後のこれらの料理を頼むことは絶対にない。頼むものはハンバーグか、唐揚げか、麻婆豆腐と初めから500%決まっているのだ。要するに、注文するものは、その店の一番安いメニュー。最も安い料理。判断基準は値段。店に入った時点で、そういう決め方をすることを否応なく義務づけられているのだ。その店の一番安いもの。尺度は値段。安いこと――

 

 いかがだろう。これでカッコいい50歳になれるだろうか。

 

 なれるわけがない。

 

 だから思うのだ。

 矮小な話で恐縮だが、

 昼食で2,000円くらいまでなら、値段を気にせず注文できるようになりたい。

 目を皿にして安いものを探さなくてもいいようになりたい。

 

 そこを目指していきたい。

お小遣いの平均

先日、ネットのニュースで出ていた。

 

「サラリーマンの小遣い 3万7,873円と過去3番目の低水準」

 

 思わず首をひねってしまった。3万7,873円の一体どこが少ないんだ?今の僕の小遣いより1万3千円ほども多い。この差は大きい。とてつもなく大きい。そんなにあって何が不足というんだろう?それだけあればどれだけ豪勢な昼メシを食べられることか。どれだけユタカな気持ちで日々を過ごせることか。なのに不思議なことに、この記事には続きがあって、

 

「昼食代は587円と、2009年以降では2番目に高かった​」

「1週間のうち、昼食に「弁当」を持参する割合は、平均で34.9%と最も高くなっている」

 

 この587円という金額は意外だった。もっと多いのかと思った。正直、1日500円で考えている僕と大差ない。おまけに弁当の持参率も高い。皆さん、小遣いが3万7千円もあるのになぜだろう。食費は削って他のところでお金を使っているということなのだろうか。

 試しに計算してみれば、1か月の休みが6日から8日あるとして昼食代は587円×出勤日数で月に1万3千円から4千円くらい。とすると2万円以上余ることになる。確かにそれだけ余ればかなりいろいろなことができる。ショッピングをしたり、飲みに行ったりすることも可能だ。この2点は僕には日常縁のないことである。ウラヤマシイ。

 

 でも、その計算なら僕だって月に1万円は余るはずじゃないかと思われそうだが、実際はそんなことはない。誰でもそうだと思うが、昼メシ以外にもなんだかんだ言ってお金は使ってしまうものなのだ。

 特に僕の場合、普通の家庭とちょっと違っていて、自分が食べる朝食のパンは家計からではなくて、自分の小遣いの中から買うことになっている。家計から買うパンはカミサンや大学生のムスメが食べることに――暗黙の了解のうちに――なっているのだ。いつからこうなったかは分からない。

 

 だから当然、スーパーやコンビニに行く機会が増える。特にスーパーの場合はいけない。コンビニよりも安いというのと、食パン1斤持ってレジの行列に並ぶのも気が引けることもあり、ついつい余計なものまで買ってしまうのだ。切らしていたからとビールを買う。甘いものもキライじゃないから菓子パンにも手が伸びる。さらにお通じ対策のヨーグルトを必要だからとカゴへ入れる。そんなこんなであっという間にそれなりの金額を使ってしまうのだ。これを週に2回繰り返していれば小遣いがどんどん減っていくのは当然である。その減り方を少しでも緩やかなものにするべく、少しでも安いスーパーを選び、そして万が一、そこで100円玉を落っことそうものなら、前回の記事のようなことになってしまうのは、ここまで読んでいただいた皆様ならご理解いただけるのではないだろうか。

 

 

 

――なワケないか。