カッコいい50歳を迎えるために。お小遣い2万5千円からの脱却。

あと数年で50歳を迎えるワシの小遣いは月2万5千円。どうにかしてもう少し好転させたい。

カナシイ行動

 

 前回書いたことの補足になるが、このブログを始めるにあたって考えていることがある。

 それは、例えば昼メシ代は1日500円までで、そのために昨日は牛丼屋でサラダセットの480円にしましたとか、今日は自分で弁当を作って丸々浮かせましたとか、そういう日々の決めごとや自分に課したルール、節約の内容のようなものをひけらかすものにはしないということ。

 なぜならそのあたりのことは、これまでもたくさんの方が書いてきているし、今さら僕が目新しい生活術を披露できるわけでもない。これがもし1億円の使い道とかだったらいろいろと楽しいことも湧いて出てくるだろうけど、2万5千円ではどんなに頑張ったところでたかが知れている。まさか昼メシに3千円のイタリアンにしました、なんてことが書けるわけもなく、そうなると誰がやったって、ドングリの背比べのような内容にしかならないだろう。

 だから、ここではそういう節約の内容というよりも、それに付随して身の回りで起こる、カナシイ話、バカ話、ヨタ話といったものを――世間の必要性は全く無視して――書いてしまおうと考えている。

 

 

 

 ある日のこと。

 会社帰りに最寄り駅のスーパーに寄った。夜の9時ごろだったと思う。

 この日は家に帰ってビールが飲みたかった。

 僕はもともとそれほどお酒を飲むタイプではない。毎日は飲まない、というか飲まなくても平気である。だから常に家にビールが常備されているわけではない。巷のオトーサンたちのように、ビールをケースで買うということはほとんどない。そもそも、いくら1本あたりに計算すると安くなるといったって、ケースで買えば数千円はするのだ。スーパーで数千円のものを買うという慣習は僕にはない。まあ、ないのは慣習ではなくて、お金だったりするんだけど、とにかくそんなわけでビールを飲みたくなったらその都度1,2本ずつ買うことにしていた。実際に買うのは発泡酒や第3のビールである。

 

 この駅前のスーパーから家までは自転車で10分くらいかかる。だから、本当は家のそばのコンビニで買ったほうがビールがぬるくならずに済むんだけど、いかんせんコンビニは高い。わずか20円くらいの差とはいえ、その20円を気にするのはもはや自分の中では常識になっていた。

 

 店に入って酒の棚からいつもの金色のパッケージのビール(風飲料)を手に取る。ちょっと迷って350ml缶2本にした。230円くらいだナ、と頭の中で計算しながらレジに向かう。

 2台しか稼働させていないレジはこんな時間にもかかわらず結構混んでいた。買い物カゴをいっぱいにさせているお客さんに混じって缶ビール2本のオッサンが並ぶ。列はなかなか進まない。ビールがぬるくなるから早くしてくんないかな~と若干イライラしつつじっと順番を待つ。前に並んだオバサンは何やらカードのポイントのことでレジ係と話をし始めた。そんなこと今さらここで聞くなよな~、とさらにイラだつ。

 

「お待たせしましたー」

 やっと順番が回ってきた。やれやれ。僕はタメ息をつきつつ、小銭入れから100円玉を出そうとした。

 その時、悲劇は起きた。

「あっ!」と思った瞬間、100円玉がツルリと手から滑り落ち、床に落下してしまったのだ。それもただ落下しただけならよかったのだが、あろうことか100円玉は落ちたはずみでコロコロとカウンターの下に転がっていってしまったのである。そしてあっという間に僕の視界から姿を消した。

 げげっ!マジかよ~っ!

 僕は心の中で叫び声をあげた。どうしよう?

「233円になります」レジ係はそんな僕の動揺に気づくはずもなくお金を請求してくる。

「あ、あの…」オッサンは哀れな声を出した。「100円がこの下に落ちちゃったんですけど」

 そういうとレジ係の女の人は怪訝な顔をしながらもカウンターの下をのぞいてくれた。そう、その辺にあるんです、僕の大事な100円玉。

 でも女の人は身体を起こすと僕に言った。「ないみたいですが」

「え?」僕は思わず身を乗り出してレジ係のいる下を覗きこんだ。そんなはずはない。絶対あるはずだ。だってたった今、落ちたばっかりなのだから。

「そのマットの下に入っちゃったんじゃ…」と僕はレジ係の足元のマットを指さした。

「はあ…」相手は明らかにめんどくさそうな声を出しながらもマットをめくりあげた。めくりあげたところを僕ものぞきこんだ。でもそこに100円玉はなかった。一体どこに行ってしまったんだ、僕の100円。

 この時、ふと視線を感じて後ろを振り向くと、僕と同じ年恰好の、でも小ぎれいなカッコをした男の人と目が合った。その人の目にもちょっとしたイラダチの光が宿っているのが分かった。

 う…。

 僕は一瞬たじろいだ。

 どうしよう。ここはやはり大人として、100円はすっぱり諦めて支払いに移るか。たかが100円でレジの列に渋滞を起こさせ、すったもんだするのは大人として恥ずかしいことではないか。たかがひゃくえん…どうってこと…

 

 でも!

 心の中でもう一つ、別の声がした。

 もとはといえば数十円安く買うためにこの店に来たんじゃないか!そのためにわざわざコンビニじゃなくてこのスーパーを選んだんじゃないか!ここで100円を失ってしまったら、2本のビールを買うのに330円払うことと同じことになってしまう!それではここに来た意味がなくなってしまう!それで、それでいいのか!?本当にそれでいいのか?!

 オッサンは明らかに自分を見失っていた。大人としての冷静な判断ができなくなっていた。 そしてやおらカバンを足元に置くと、ガバッと地べたにしゃがみ込んだ。そしてほとんど腹ばいになりながらカウンターの下を覗きこんだのである。

 

 それは凄いシーンだった。曲がりなりにもスーツを着たサラリーマンが、あと数年で50を迎えようとする大人が、スーパーのレジの前で両手をつき、床に頬をくっつけんばかりにして、カウンターの下を覗きこんでいるのである!こんな凄まじいシーンがあっていいのだろうか?!

 でも、この時オッサンはすべてをかなぐり捨てていた。自分にわずかに残っていたプライドのようなものを丸ごと放り出し、全身全霊で100円玉を探しにかかっていた。

 

 それなのに、そこまでしたのに、100円は見つからなかった。レジ係の足元にも、マットの下にも、カウンターの下の隙間にも、どこにも見当たらなかった。さっき落っことしたばかりなのに、忽然と姿を消してしまったのである。

 オッサンは憔悴した表情で身体を起こした。無力感に包まれていた。レジ係のほうを見ると、その表情が顕著に物語っていた。

”アンタ、ひょっとして落としてないのに落としたって言ってんじゃないの?”

 それと同時に列の後ろからも無言の圧力を感じた。

”オメー、早くしろよ、コノヤロウ。こっちは待ってんだよ”

 ぐ…。

 二手からの挟み撃ちにあい、僕はこれ以上100円玉に執着できないことを悟った。地団太を踏みたい気持ちを抑え、僕は小銭入れからお金を払った。

 そしてレジ袋に入った商品を受け取るとき、ふと、レジ係の後方に、何らかの機械を載せたストールがあるのに気付いた。

 あ…僕は思った。あそこだ!

 思い出してみれば、床に落ちた100円玉はコロコロとカウンターの下に転がっていった。あのまま倒れずに転がっていったとしたら、行きつく先はあそこしかない!間違いない!あの下にわが100円玉は眠っているのだ!

 だけど…時すでに遅し、だった。

 すでにレジ係は次のお客様の対応を始めていた。そこに今さら、「あの、あのストールの下を見てほしいんですけど…」とはさすがにもう言えなかった。言えるわけがなかった。

 

 そうして僕は失意のまま、スーパーを後にした。2本で330円の高いビール風飲料を抱えながら、心の中で何度も悪態をついた。ちっ、あのレジ係のオバハンめ、もっと熱心に探してくれてもいいじゃないか、だいたいお客がお金を落としたって言ってんだぜ?そしたら普通見つかるまで探すだろ?探すのが義務ってもんだろ?それを、早くしてくれませんか?なんて目つきで見やがって…いや、それどころかオレがウソ言ってるかのような応対しやがって…クソ、もう、決めた。オレは決めたぞ、二度とこのスーパーでは買い物してやんねえ!そうやって店は客を失っていくんだ、売上が落ちても知らねえからナ、自業自得だ、チキショウメ…!

 そうしてひとしきり、罵詈雑言の限りを尽くした後、オッサンは夜空を見上げて思った。

 

 

 嗚呼、もう少しお金があったらなァ――――

 

はじめまして。

 お小遣い2万5千円。

 

 この金額が多いのか少ないのか、まあ、多いということはないにしろ、いろいろ調べてみると、これよりももっと少ない金額で頑張っている人も世の中にはいる。だから僕は自分がものすごくアワレだと言うつもりはない。

 でも先に言ってしまうと僕は40代だ。実はあと数年で50の大台に乗る。

 50歳。

 なんてことだろう。40代とはもう明らかに響きが違う。20代の頃からしたら、50なんて年はもう完全にジイさんの入り口だった。そんな年齢をあと数年で(東京オリンピックよりも早くに)迎えてしまうと思うとオソロシクなる。

 しかももっとオソロシイのは、このままでは「お小遣い2万5千円のままで」50になってしまうということである。それだって現状をキープできたら、の話だ。

 なんてことだろう。こんな状況を、一体誰が想像できただろう。話が行ったり来たりして恐縮だが、自分が20代の頃の50歳のイメージは、

 

「太っている」「無神経」「声がでかい」「ダサい背広」「スケベ」「タバコ臭い」…

 

…「でも金はそこそこある」

 

というものだった。別に当時の上司を思い出してとか、そういうわけではない。一般的なイメージとして、当時はそんなふうに見ていたと思う。

 ところが現実はどうだ。自分の現実はどうだ。

 

「やせている(を通り越してガリガリ)」「神経質」「声が小さい」「ダサイスーツ」「むっつりスケベ(しかしそういった欲望も次第に枯れつつある)」「タバコはキライ」…と、とにかくほとんどのことにおいて正反対、そして何より…

 

「金がない」

 

 これが致命的だった。ここさえ、「でも金はそこそこある」なら、まだなんとかなった。他のところはともかく、それを補って余りあるものがあっただろう。金さえあれば。しかし、この一番大事な部分が大きく欠落していた。「人生、こんなハズじゃ…」の最たる部分はここが占めるといってもいい。

 その昔、忌野清志郎が歌っていた。『金なんかなくったって幸せになれるのさ』と(その反対の歌もあったケド)。僕はこの歌を20代の頃に初めて聞き、そうだよなァ、世の中、金じゃないよなァ、もっと大事なものがあるよなァ、とわが意を得たりのような気持ちになっていたのだ。幸せはお金じゃないと。

 今思えばそれが間違いだった。

 いや、清志郎のことをどうのこうの言うのではない。僕自身の考え方が間違っていた。

 ここ10年ばかり、いろいろな本を読んでみた。それにより得た結論は、お金のことをきちんと考えている人にお金はやってくる、ということだった。なくてもいい、という人のところへはお金はやってこないのだ。

 じゃあ、なぜ、お金が欲しそうなアンタのところへ、今、お金がやってこないのだと思う人もいるだろう。

 それはたぶん、お金がない生活が習慣になってしまっているから――だろうと思う。こびりついてしまっているのだ。フジツボのようにびっしりと。お金のない生活が。

 

 

 それをなんとかしてひっぺがしたい。はぎとりたい。

 

 

 このブログは、『お金持ちになれる100の方法』とか『デカイ小銭入れを使えば小銭がザクザク』とか、そんな内容のものではない。僕自身、そのテの本はたくさん読んだ。何か本に救いがあるような気がして気になったタイトルの本は手当たり次第に読んだ。

 でも…残念ながら今の僕はそれらを読む前となんら変わっていない。少なくともお金に関しては変化はゼロだ。財布の中身、銀行の残高。何も変わっていない。

 まわりの人と、「年をとると日がたつのが早いね~」とかなんとか言いながら、気がついたら、本当に何も進歩がないままこんな年齢になってしまったのだ。

 ふと我に返ってガクゼンとする。

 

 

 これは、そんな、いい年して月に2万5千円で、日々の昼食代から何から何まで、涙ぐましい努力をしてやりくりをしているオッサンのひとりごとである。

 と同時に、今そういう状況にあっても、なんとか50歳までにもう少し経済力を好転させたい、せめて東京オリンピック開催の時には、競技を見に行った後にどこか洒落たレストランなんかで食事をできるくらいの経済力を持ちたいと願っているオヤジのひとりごとである。

 読む人には何の足しにもならないかもしれないが、それでも、世の中の同じような境遇の人に笑い飛ばしてもらい、そして、その人たちと一緒に少しでも前に進めるようになれればいいナ、と勝手に書き散らすものである。

 

 

 

 

 

 

 

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