節約病
あと数年で50歳を迎えるというのに日々涙ぐましい節約をしているのはカナシイというほかないが、実際問題、毎日節約ばかりしていると、お金を使うということができなくなってくる。節約が身に沁みついてしまうのだ。
例えば僕は、最寄り駅までいつも自転車で行っているわけだけど、雨の日は当然ながら自転車に乗ることができない。そういう時はバスに乗る。
バス代は片道220円。
普通の大人なら220円はなんてことのない金額である。
が、日々100円単位、いや、10円単位で節約する日々を送っていると、カナシイかな、この220円を支払うのが次第に惜しくなってきてしまうのだ。
いつもなら自転車でお金がかからないのに、ただ天気が雨だという、たったそれだけのために、220円を支払わなくてはならないのはあまりにももったいない。どうせ使うのならもっと有意義に使いたい。昼食のおかずを1品増やすとか、食後のコーヒーを頼むとか、もっと気分が明るくなることに使いたいではないか。なのにどうして駅まで行くためだけのためにわざわざ220円を支払わなくてはならないのか。そういう思考回路になっていく。
そうしてたどり着く結論。
歩こう。
駅まで。
駅まで歩くとゆうに30分はかかるのだが、駅までたどりつくだけのためにどうしてもその金額を支払いたくない。そういう気持ちが勝って、よほどの大雨でない限り、駅まで歩くことになるのだ。
でも歩いているうちに、スーツは肩が濡れ、背中が濡れ、ズボンは折ジワが消えてしまい、駅に着くころには相当みっともない姿になっている。そんな自分のアワレな姿を駅のトイレの鏡で見て、ああ、自分はなんて情けないんだろうと、朝からシオれた気持ちになってしまう。
その度に、バカらしい、今度は雨が降ったら潔く、大人らしく、正々堂々とバスに乗ろう、そう決心するのであるが、何日かしてまた雨が降ると、結局は220円を支払うのが惜しくて駅まで歩いてしまうのであった。
お金が使えなくなることの、これはほんの一例である。
1日500円と決めている昼食代。これだって、ある日、100円オーバーして600円になるものなら、次の日はなんとかして100円少なく済まそうとする。500円から100円減らしたら相当モノガナシイ昼メシになるのは想像に難くないが、やっぱり前日に100円オーバーした罪悪感があり、そのサビシイ昼メシでなんとか済まそうとするのだ。
こうしたことをくりかえしているうちに、どんどんお金を使えない身体に、心になっていく。
そしてこれが自分の生活パターンになっていくのだ。
こんなことをしている限り、お金は増えない。
これまでに読んだ幾多の本の教えによると、この生活をくりかえしていると、自分自身がそれを求めていることになってしまうらしい。つまり、節約する生活、お金に不自由する生活、お金がもっと欲しいと願う生活。それを知らない間に求めていることになるらしいのだ。
お金がない。お金がほしい。そう思っている間は、常にそう思いたくなるような出来事がやってくるという。
…なんてことだ。
お金がほしいのに、実はそう考えることによってお金のない生活を求めていることになるなんて。
そんなつもりは全然ないんだけど。
それらの本は言う。
お金がなくてもお金がないことばかり考えないこと。お金がなくても、自分にはお金があると思うこと。経済力があると信じ切ること。
お金がないのにそんなこと思えるワケない、と思ってしまうが、どうやら思考のクセから変えていかないとダメらしいのだ。
自分には十分なお金がある!と。
…できるかな?